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江中裕子写真と作品

江中裕子

ENAKA Yuko

私がコラージュに没頭し始めたのは入院中のたばこ室に置いてあった雑誌からでした。ですから初期の作品はB5とかA4とかの雑誌サイズの作品が多いです。楽しくてたまらないくて、朝4時に起きて、ナースセンターの灯りの下で夢中で創っていました。

江中裕子モノローグ

1960年東京世田谷区に生まれ、現在埼玉県朝霞市に在住する。
先天性肺動脈狭窄症。幼少時、自家中毒症を繰り返す。小学4年生から日中、体温が上がり頭痛がし、自律神経失調症と診断される。32歳頃、鬱病と言われ、後に重い強迫神経症、摂食障害にもなった。
幼少時から神経質で病弱だったが、絵は好きだった。高校卒業後、ガス会社に入社。仕事が嫌で毎日辞めようと思っていたが、結局約14年勤め続けた。13年目頃から、会社の同僚に自分の言おうとしている事をみんな知られてしまっていると思い込み、何も言えなくなる。心療内科を受診、鬱病と診断される。


仕事も好きになり、やる気満々時の14年目頃、歯科からの帰り道、突然路上で下着を下ろして自分の肛門を触って手が汚れたと思い、それが頭から離れず、以来何度も手を洗うようになった。会社から帰ると、バックの中身のお札も何もかも全部何度も消毒しているうちに夜になり、朝になり、昼になってやっと出社して残業して帰るという日が続いた。
上司から「頼むから休んでくれ」と言われて心療内科の紹介で東村山市にある精神科病院に行き、分裂病と診断される。数年通院後、近所のクリニックに転院した。とことん洗って良いと言われ、その通りにしていたら、夜も眠れず食事も取れず、身長157cmで体重34kgになり栄養失調で入院を余儀なくされる。


入院中、摂食障害で、体重32kgになる。担当医から「30kg切ったら危険」と言われ頑張って食べた。手の皮が剥けボロボロになるまで洗い、手袋を着用したらその時以来はずせなくなった。慈恵医大第三病院に入院、森田療法を受ける。入院中は軽快したが、退院後再発。再び慈恵医大第三病院に通院していたが、ある時友人とのトラブルで幻聴・幻覚が現れ、平川病院に入院した。

入院中、友達が退院するというので、別の人が退院祝いに花吹雪を作ろうと雑誌を破いていたのを見て、「もっときれいな色で作ったら?」と言った時、「あっそうだ、私はコラージュを作ったことがあるからそれを作って、退院祝いにしよう。」と思ったのがきっかけで、ナイフもはさみも使えない閉鎖病棟内で手袋をはずし、素手で雑誌をちぎって作品を作るようになった。その名残りで今でも作品は、手袋をはずして手でちぎって糊で貼って作っている。それが私にとっての”癒し”としての自己表現となっている。

私は、昔から現代人は肉体の病気も含めて何らかの病いを全ての人が抱えていると思っている。そういった人々の為にも”癒し”となる作品をこれからも作り続けていきたいと思う。
アトリエは皆個性の強い人ばかりだが、安彦先生は個性を重視してくれるので、それぞれ違った絵を描きながらもお互いに刺激し合い、それぞれがかかえている病状が出た時はいたわり合ったりする、私にとっては第2の家族であり、メンバーの長谷川さんの言うところの「ソウルメイト」になっている。
文明は大変発達している時代だけれど、それに比べて精神文化はそれに追い付いてはいないと思う。


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