黒川こころの応援団ロゴ
長谷川亮介氏顔写真と作品

長谷川亮介

HASEGAWA Ryousuke

これらの作品は、家で描いた作品です。モチーフはもっぱらミュージシャンでした。僕は、病気の始めの頃、たばこの本数を1日に5本にしていました。とても時間がもたないので、絵を描くことにした訳です。どれも後に人に観てもらうとは思っていませんでした。ただ家族で1人だけ、僕を見てくれる母のためだけに描きました。こんなにたくさん描きましたけど、後に〈造形教室〉では油絵やアクリル画に画材は変わっていきました。こうして展示していただけて、とても嬉しいです。みなさんも絵を描いてみて下さい。自由に描いてみて下さい。僕もそのうちみなさんの絵を観にいきます。

長谷川 亮介「フットプリント」

生きるということは、苦悩の連続であります。人間は心が乱れていれば、この世はすぐに地獄となり、心が安定していれば、この世は平和だと思うのです。大学を卒業し、会社務めをしてお給料をもらう。そんな安定した大人に、僕はなりたかった。
幻聴、心臓病、嗅覚障害、対人恐怖、不眠症などがあり、僕に出来ることは限られています。今どき、携帯電話を使えない人間も、そんなにいないのではないでしょうか。心の苦悩は、本人でなければいくら口に出して言っても、その辛さは伝わらないと思います。色々な症状や障害が、時と場所を変えて発作として現れます。今はほとんどありませんが、以前は、5秒として落ち着いて座っていられない苦しい切迫感が続いていたこともありました。


大学を卒業後、すぐに心の病いに冒された僕は、千葉の病院に入院しました。ところが、あまりに酷い環境と仕打ちだったので、ある日、意を決して脱走しました。朦朧とする意識の中、なけなしのお金を全部10円玉に変えてもらい、命からがら実家に電話をして向かえに来てもらいました。その3日後、心臓病を併発しました。脱走していなければ、死んでいたかも知れません。脈拍が1分間に14回しかなく、すぐにペースメーカーの手術を受けました。医師には「20代でペースメーカーを入れるのは、日本には300人しかいない」と言われました。
当時、まだ若かった僕は手に職をつけたいと思い、飲食店でアルバイトを始めましたが、この頃から幻聴や不眠症に襲われるようになっていたため、仕事も人間関係も上手くいかず、どこも長くは続きませんでした。「これではとてもダメだ。自分でお店を持つしかない!」と自営業を夢見て、何とか同じ会社で働き続け、食品衛生責任者や防火管理者の資格を取得し、長い年月をかけて、ついに家族でお店を持つことが出来ました。


でも心身共に疲弊しきっていたので、毎日毎日とても辛かったです。のたうち回りながら必死で働きました。何年続いたかは、覚えていません。家族に言わせると、その頃は、話すことも、行動もめちゃくちゃだったようです。お店は家族に任せ、僕は心の健康を取り戻すことに専念するため、平川病院に入院することになりました。ちょうど40歳の時でした。そこで、運命的に安彦先生と〈造形教室〉に出会い、退院後も通うようになりました。
僕はもともと音楽が好きで、若い頃からギターはやっていましたが、絵は子供の落書きよりも下手で、初めて〈造形教室〉のアトリエにいった時はビックリしました。みんなとても良い絵を真剣に、しかも活き活きと描いていました。


退院したとはいえ心の苦悩がまだまだ続いていた僕は、最初の頃は、もっぱら家で描いたものをアトリエに持って来ては、みんなに観てもらっていました。シャープペンシルで下描きをし、気に入った線になるまで消しゴムを何度も使い、線が気に入ったらボールペンでなぞって色を入れました。下手くそだけど個性的な、自分の絵が出来上がりました。
その後も自己流でなんとか工夫し、つまずき、苦労しながらも、心の苦悩の一瞬一瞬を切り抜けるために夢中になって描き、やがて江中さんや音楽をモチーフに試行錯誤しながらアクリル画を描くようになりました。都展という公募展に入選した時には、「僕にも出来ることがあった!」と大喜びしました。
この作品集に掲載された作品は、どれも豊かな才能から描かれたものではないんです。躁鬱、対人恐怖など、心の苦悩の連続の中、絵を描くことを心の支え、杖として、努力して描いたものばかりです。
こうしてまとめて見返してみると、どれも二度と出せないタッチで描かれており、精一杯やってきたフットプリント(足跡)として残されたもののように思います。


先頭